紹介された新聞や雑誌の記事について

1994年11月12日 中日新聞 小牧くらしのニュース

卒業したらドイツへ

 

中学生の時、美術の講義が面白かったことから小牧南高を経て、現在は東海女子大学(岐阜)の文学部美学美術史学科に在学中です。
中国の水墨画や日本の壁画、仏像などについて学んでいます。
夢の一つに将来、外国の美術に関する洋書を訳してみたいということがあり、そのために授業とは別にドイツ語を習っているほど。
二回ほど短期のヨーロッパ留学の経験もあるのです。

○ ・・・でも決してガリ勉ではありません。
趣味は、絵を描くことと、ピアノやフルートの演奏。
描き上げた絵画作品は、アルバイトをしているうどん屋さんに飾ることもあり、訪れるお客さんにもなかなかの好評だそうです。
フルートは、全くの独学ですが、ピアノは本気で音大受験を考えたくらいの腕前。
今でもレッスンに通い、「いつかはレストランでピアノを弾くのも夢なんです」と話します。

○・・・「大学を卒業したらドイツを中心に1年間は行ってきたい」
美術を含めたドイツ文学を勉強したいということと、将来の翻訳の夢のためにもっとドイツ語の勉強の必要を感じるからだそうです。
そして「できるだけ多くの人と出会い、交流したいから・・・」とつけ加えました。


2002年12月24日 ドイツ地方新聞 ディ ラインプファルツ

指に導かれカイザースラウタンへ

 

ただでさえ日本人がここプファルツ地方に来るなど珍しいのに
こちらの日本人女性 落合 敏恵がここカイザースラウタンに来た理由は、さらに輪をかけて珍しく、またなんて単純な理由だったのだろう。
「わたしは、まずヨーロッパの地図を広げました。そして目を閉じ、適当に指を置きました。」
指された場所は、間違っていなかったといえる。来年6月に、28歳のきゃしゃな彼女は、職人養成マイスター学校 カイザースラウタンにて卒業試験を控えている。
実は、遠いドイツへの道のりは完全に偶然だったわけではない。
「日本の大学で芸術学を学ぶかたわら、ドイツ語を専攻し、同時に木工職にも興味がありました。」とにっこり笑う彼女。
彼女の住む名古屋市は、東京と大阪の間に位置し、日本で4番目に大きい都市で約2500万人の人口だそうで、就学場所はあるが職人になるにはかなり厳しく、特に 女性には難しいようである。彼女の目標は、一度木製の楽器を作ってみたいというもの。
カイザースラウタンには、すでに2年間在住、その前は、マインツに住み、マインツ大学でドイツ語を勉強していたそうだ。
事情の分からない外国のラインラントプファルツ地方に一人で住むのは、怖くなかったか?という私の質問に彼女は「いいえ」と答え短い黒髪をなでた。
「まだ若く、誰にも気兼ねなく自由に動けるので全く怖くはなかったです、それに私は、どうしてもヨーロッパの都市が見たかったので。問題が起こる方向には少しも考えなかったです」とのこと。
強いて言えば、ドイツに来るのに自分の家族を説得することのほうが問題だったそう。母親はあまり賛成しなかったが、強い意志により説得成功。
「最初の一ヶ月目はとても苦しく悲しく、全く笑いませんでした。」と彼女。
今この28歳の彼女が絶え間なく笑って話しているのを見ると信じられない。
言葉といえば、カイザースラウタン地区の方言だが、彼女は最初からあまり苦労しなかった様子。
「ここの方言はわりと分かります」と彼女。
言葉の支障は今ではほとんどないようだが、実際彼女にとってその土地の言葉を覚える以外他に方法はなかったのだから当然と言えるかもしれない。カイザースラウタンに来てからは、まだ一度も日本に帰っていない彼女は、家族と日本食をとても懐かしく思っているようだ。
この11月に母親と妹の二人が本人を訪ねて来る予定となっており、一週間の短い訪問ではあるが、彼女はとても喜んでいる。
学校について聞くと
「カイザースラウタンマイスター学校は、とても気に入っています。先生はみんなユーモアがあってリラックスしていて、最初からとても親切な歓迎を受けました。プファルツ地方の気質も好きです。荒さの中に繊細な気持ちがあるように感じます。」
プファルツ地方はサッカーでも有名だが、彼女はあまりサッカーには興味がないようだ。
「誰かが私を競技場まで引っ張って行かないと行かないでしょう。」と彼女。
しかし彼女には、来年までまだフリッツワルター競技場に行くチャンスはある。
卒業後は、日本に完全帰還する予定である。
「滞在ビザに制限があるので仕方ありません。本当はもっとドイツに住みたいのですが、難しい現状です。」とのこと。


2004年9月24日 新潟地方 越後ジャーナル

若い後継者の姿に 「うれしい」

 

新潟県三条市をはじめ、日本の刃物など伝統的な道具類を輸入しているドイツ・バイエルン州メッテン市、ディック社(ルドルフ・ディック社長)の社員、 落合敏恵さん(30)が、3週間の休暇を利用し、三条市、与板町など県内の刃物産地を訪れ、 刃物の製作、研ぎ方や、日本の木工製品について学んだ。

    落合さんは、ドイツで木工関係のシュライナーとの名称の職域で、ゲゼレーの資格を取得した職人。
    シュライナーとは、壁、ドアなどの内装、家具など、建物内の木製品のすべてを賄う職人。
    ゲゼレーとは、日本でも知られるマイスターよりも一段階下の資格。

    落合さんは、愛知県小牧市出身。
    岐阜県にある大学の美術史学科で、主に建築関係の概論や日本の文化などを学んだ。
    卒業後、博物館で働くこともできたが「理論だけを学んでも、人が造ったものの批評はできない。造り方を一から覚えたい」と、職人としての技術を学ぶことを思い立ち、単身渡独。

    技術を学ぶ場を日本ではなくドイツとしたのは、経済的な理由が大きかったという。ドイツでは、公共のサービス料を低く抑える代わりに、消費税の16%をはじめ、高い税金でまかなうシステム。
    職人を養成する学校もほとんどが国立、授業料は外国人であっても無料。
    「東京で暮らして専門学校に通うよりも、お金を抑えることができた」。

    そして、4年間学校に通って、シュライナーのゲゼレーとしての資格を取得、ドイツ国内にとどまり、ディック社に入社している。

    ディック社は、バイオリン職人に部材と製作道具を提供している150年の歴史ある会社。
    25年前、同社で仕事を始めたルドルフ・ディック社長は、金属学の博士号を持っている。
    その専門家としての見地から、近年、切れ味と耐久性を合わせ持った日本刃物に力を入れ、三条市内の角利産業(株)をはじめ、職人の手がけた刃物などを輸入している。

    また、ディック社では、道具を売るだけでなく、道具の使い方、ものを作ることの楽しさを伝えるため、製作体験のできるワークショップも開設しており、年間100以上のコースを用意しているほど。現在落合さんは、その企画、運営を担当。
    ディック社としては、日本の道具を培った文化を吸収するためにも、落合さんは有望な人材でもあるようだ。

    今回、落合さんが、来日することになったきっかけは、角利産業(株)の加藤睦宏専務が、三条市内の鍛冶職人に呼びかけたドイツの視察旅行。
    一行の旅の様子は、本紙で4月に、加藤専務が執筆して「越後鍛冶職人ドイツを行く」とのタイトルで連載した。
    落合さんは、その時に一行の通訳兼ガイドを務めた。
    その際、落合さんが「自身のレベルアップのために、ものをつくる道具のメンテナンスの方法、刃物の研ぎ方なども学びたい」との希望を持っていることを知り、メンバーが「三条に来いて」と誘っていたことが、実現して今回の来日となった。
    ディック社では、ワークショップの一環で、来年、日本ツアーを企画しているため、その下見も兼ねている。

    来日の日程や訪問するメーカーについては、角利産業の加藤睦宏専務が日程や訪問する会社をコーディネート。日野浦刃物工房で切り出し小刀の製作を体験したり、(株)山村製作所で座学を受けたりと忙しく過ごした。
    そして、22日には、(有)高三の樫木工房を訪れ、高橋宏明さんと手作り家具について、熱心に話し合っていた。

    落合さんは、日本の道具について学びに来た理由について
    「ワークショップで職人の方に、日本製の刃物だから研いでほしいと頼まれ、研いだが、うまく研ぐことができなかった。しかし、文化の違いもあるのだろうが、頼んだ人は、仕上がりに対して無反応だった。それが悔しくて」 と笑う。
    職人の目で見た三条産地の印象については、同じ職人としての目線で
    「私の出身地では、職人の技術を学びたくても『やめておけ』と言われるが、三条では、若い後継者が意欲を持って取組んでいる姿が見られ、とてもうれしい」
    と感心していた。

    また、将来に向けての目標は、ディック社のワークショップで働きながら、さまざまな分野の職人から幅広い知識と技術を吸収し「シュライナーのマイスター並みの技術を習得し、木工関係で新たな道を探していきたい」と考えている。

    落合さんは、22、23日と、与板町で刃砥ぎなどを学んだ。(重藤)


2007年 ナイフマガジン2月号